後にも先にも1回だけの……
タローの一番の長所は、人間を心から信頼していることだったと思います。
ある意味、ちょっと“オマヌケ”だったと言えなくもありませんが……トホホ。
とてつもない食いしん坊のくせに、ご飯やオヤツを前に「よし」と言われるまで、
食べるのをグッと我慢していました。
「よし子」「よし男」といったフェイント言葉にも引っかかりません。
ただし限界が近づくと涎がタラーリ、タラーリ。合図を待ちわびる彼の足元には、ちょっとした水溜りが出現するのでした。
5、6匹の群れで散歩している時、飼い主さんの1人がゴソゴソとオヤツの袋を取り出すと、さあ大変!!
飛びついたり吠えたりと、ワンコたちはもう大騒ぎ。
そりゃ、そうですよね。
先を争い、存在を主張するのはむしろ本能的な行動ですから。
ところがタローは、後のほうでちょこんとお座りをして待っているんです。
オヤツの袋を取り出した飼い主さんは群がるワンコたちに分け与えながらも、彼の姿がちゃんと目に入っていたんでしょうね。
頃合を見計らって、差し出してくれました。
すると、とても驚かれたのです。
がっつくあまり、歯を立ててしまうワンコもいるので、「ちゃんと躾ができている」と思われたようです。
自慢じゃありませんが、婆やの辞書に“躾”という言葉はなく、彼は根っからお行儀の良い犬なのでした。
根底に、人間に対する信頼感があったからこそ、タローは食いしん坊のわりに口がキレイだった――そんな気がします。
彼の頭の中には、「いい子にしていれば、必ずご褒美をもらえる」という図式が成立していたのかもしれません。
そんな彼の気質は、散歩で出会うワンコの飼い主さんや顔見知りの方はもちろん、初めて会う人に対しても発揮されました。
声をかけられたら、挨拶せずにはいられないのです。
ペットショップのお姉さんからは「ご挨拶犬」と評されていましたっけ。
こんなエピソードがあります。お父さんが散歩に連れているメスのワンコと知り合いになりました。
最初の頃、彼女は警戒してワンワン吠えたてるのですが、タローはお構いなしです。
ずんずん近づいてワンコの匂いを確認すると、今度は飼い主さんへ向きを転じます。
丸めた尾を振りながら、まるで「タローと言います。どうぞ、お見知りおきください」と挨拶しているようでした。
ある日、いつものお父さんではなく、お母さんが散歩をさせている時に遭遇しました。タローは吠える彼女の匂いを確認すると、すかさずお母さんへ近づき、お座りをするじゃありませんか!!
「お初にお目にかかります。いつもお父さんにはお世話になっております」とでも言いたげな様子に、思わず飼い主のお母さんは笑いながら、「あなたがタローちゃんね。よろしく」と頭を撫でてくれました。
以後、お父さんとお母さん、2人の飼い主さんから可愛がってもらい、彼が殊のほか満足したのは言うまでもありません。
いつの間にかワンコの彼女も吠えなくなりました。
人間に対して絶大な信頼を寄せるタローですから、「ウーッ」とうなったり噛みつくことなどほぼ皆無でしたが、生涯に一度だけ、歯型が残るほど噛み付いた相手がいます。何を隠そう、最初の飼い主である私の父親です。
父親は忌々しそうに手の傷跡を見せました。豆粒みたいに小さな歯で、よくこれだけ跡がついたものだと、逆に感嘆したのを覚えています。
どうしてこんな事態になったのか――。
顛末はこうです。
古びたTシャツをタローに無理やり被せ、暴れる様子や、やっと顔を出したところを見ては、たいそう父親は面白がっていたようなんですね。
何回目かの時、「もう我慢ならん!!」とばかりにタローがガブッ!!
私が飼い主になってからも、父親が高笑いをすると、必ずと言っていいほどタローは吠えていました。
おそらく父親の笑い声とともに、屈辱的な出来事が甦るのでしょう。
身を拘束され、嘲笑されるのは、彼にとって耐えがたいことだったろうと思います。
犬にも自尊心があるのだと気づかされました。