三者合意のもとに その1 その時タローは……
自然の恐ろしさと、文明人の傲慢さとを思い知らされた東日本大震災、そして福島第一原発事故から10年が経ちました。
10年という歳月は、人によって長さも重さも受け留め方は様々だと思いますが、私にとって、この10年間はタローの病気に始まり、
やがて父親とタローとのダブル介護を経て、片や施設へ、片やあの世へ見送り、精神的にも肉体的にもけっこうしんどい日々でした。
だけど、タロー爺さんを抱えて外に出れば、犬友や近所の人が声をかけてくれ、彼の頭を撫でてくれました。
タロー爺さん亡き後は、父親の元へ毎日通う私の体を気遣ってくれることが幾度となくありました。
先の見えない介護に、つい出てしまう愚痴を聞いてもらい、その度に慰められ、励まされ、どんなに気持ちが軽くなったことか!!
ため息をつきながらも、なんとかやり過ごすことができたのは本当に幸運でした。
対面で気軽に声をかけ合うことができない、他者とのつながりを感じにくい新型コロナ禍の今の時期と重なっていたら、私の精神も肉体もたぶん正常でいられなかったと思います。
前置きが長くなりましたが、10年前の3月11日のことを話しましょう。
当日、私は仕事の打合せで外に出ていました。しかも、ちょっと郊外へ。
いつもなら間違いなく在宅しており、タローの傍でパソコンに向かっていたはずです。
地震の多い東京でも、あまり経験したことのない揺れの大きさと時間の長さでしたよね。
歩いて自宅に戻ることが出来る距離ではなく、出先に留まろうと決心しましたが、気になるのはタローと連れ合いの安否、はたまた築50年以上になる家がどうなっているかです。
携帯電話がなかなか繋がらず、やっと連れ合いと連絡がついたのは、とうに午後6時を過ぎていた覚えがあります。真っ先にタローの様子を尋ねると、思いもよらぬ答えが返ってきました。
「これはちょっとヤバそうと思って、タローが寝ているベッドごと食卓の下に移動したんだよ。そしたら、ふてぶてしい顔付きで『何が?』と一瞥をくれてさ。まったく怯えていなかったよ」というじゃありませんか!!
その後、いつも通りにご飯と散歩を済ませたそうです。
私はほとんど眠れぬまま、その夜を過ごしたのに、彼は毎日のルーティンをこなし、スヤスヤお休みになっていたとか。
小さい頃のタローは、音や振動がはなはだ苦手でした。
家の中でも雷のゴロゴロが聞こえたら、もう大変。私が居れば必死な形相で「抱っこ、抱っこ」をせがみ、姿が見えなければ仕事机の下に入り込んで震えていました。
そんな彼が、あの大きな揺れに動じることもなく、淡々と変わらぬ日常を送っていたとは。
タローも立派に成長したものだ!!
いやいや、そういうことではなく、大震災と原発事故が起きた2011年、タローと私と連れ合いも、忘れえぬ事態に見舞われたのです。